1769(明和6)年1月1日(旧暦)、高田屋嘉兵衛は淡路島 都志本村(つしほんむら)(現・洲本市五色町都志)に6人兄弟の長男として生まれました。幼い頃から海に親しみ船を愛した嘉兵衛には、少年時代、近くの川に玩具の船を浮かべながら、潮の満干を調べて大人達を驚かせたといった逸話がいまも語り継がれています。22歳で兵庫(現・神戸市兵庫区)に出た嘉兵衛は、大坂 (大阪)と江戸の間を航海する樽廻船(たるかいせん)の水主(かこ)となり、船乗りとしてのスタートを切りました。

やがて優秀な船乗りとなった嘉兵衛は兄弟たちと「高田屋」を立ち上げ、日本海の湊(みなと)を結びながら大坂と蝦夷地北海道)を行き交う廻船問屋として活躍します。28歳で当時国内最大級の千五百石積の船「辰悦丸(しんえつまる)」を建造し、まだ寂しい漁村にすぎなかった箱館(函館)を商売の拠点としました。

その頃世界では、大航海時代を経て、 新たな交流の時代を迎えていました。 ロシア人を日本へ向かわせた理由のひとつが、ラッコなどの毛皮です。その 商業的価値から「柔らかい金」ともよばれたこの毛皮を求めて、18世紀初頃にはロシアの毛皮商人たちの千島列島の南下がはじまりました。かれらの 活動が盛んになるにつれ、物資補給地、 交易地としての日本との関係構築が喫緊の課題となりました。一方、ロシア人がエトロフ島やウルップ島辺りに渡来し、アイヌと交易するような状態を危惧した幕府は、国防対策を急ぎます。 嘉兵衛は幕府の要請を受けて、エトロフ島とクナシリ島間の安全な航路を発見したり新たな漁場を開くなど、北方の開拓者としても功績を残しました。

1804 年 9 月〔和暦〕、ロシア使節レザノフが長崎に来航し、幕府に通商を求めましたが、 幕府はその要求を拒否します。レザノフは武力行使で日本側に通商を認めさせようと、本国の許可も得ず、部下のフヴォストフらに命じてサハリンやエトロフ島の日本人居住地を襲撃させました(文化露寇:フヴォストフ事件)。この攻撃で日本側は驚愕し、東北諸藩の兵を動員して厳戒態勢を取ります。

日露間の緊張が高まる中、 1811 (文化 8 )年 6 月、海軍省の命令を受けて千島海域の地理を調査中であったロシア皇帝艦ディアナ号のゴロヴニン艦長が、クナシリ島で水・食料の補給を得ようと上陸した途端、日本側警備隊に拿捕されるという事件がおこりました。

副艦長リコルド率いるディアナ号は日本側の砲撃に遭い、一旦救出を断念して帰国します。その翌年 八 月に再びクナシリ沖に来航し、日本人漂流民を介して交渉を試みますが日本側は拒否、困り果てたリコルドは海上を航行する日本船から艦長の消息を聞き出そうと、偶然近くを通りかかった嘉兵衛の船を捕らえ、カムチャツカに連行抑留します。

囚われの嘉兵衛とリコルドは同じ部屋で寝起きし、「一冬中に二人だけの 言葉をつくって」交渉、嘉兵衛はリコルドに、一連の蛮行事件はロシア政府が許可も関知もしていないという政府高官名義の証明書を日本側に提出するようにと説得、その言葉を聞き入れたリコルドは嘉兵衛と共に日本に戻り、嘉兵衛を両国の仲介役として、遂にゴロヴニン釈放にいたる和解を成し遂げました。

晩年は、故郷淡路島にもどり、港や道路の修築など、郷土のために力を尽くし、1827(文政10)年、自宅で静かにその生涯を閉じました。

21世紀を迎えた地球上では、いまだに民族間の衝突や紛争が絶えません。他者を思いやる「寛容」や「共生」という崇高な理念が叫ばれますが、国家間の頑迷な利害や憎悪といった負の連鎖の前で、私たち人類は本当にそうした高みに立つことができるのか、その困難に心が折れそうにさえなります。高田屋外交という嘉兵衛の事績がいまなおその輝きを失わないのは、そのような絶望の淵にあっても、人間はわかり合える、互いを信頼するに値する生命体であるという勇気を私たちに与えてくれるからではないでしょうか。リコルドはその著書の中で、嘉兵衛を次のように称えています。「日本にはあらゆる意味で人間という崇高な名で呼ぶに相応しい人物がいる」