くにうみ神話で有名な沼島は、淡路島の南4.6kmに位置する小島です。
昭和45年に刊行された沼島壮年会編『沼島物語』という私家版の郷土史の中に、海人(あま)の民として生きた沼島衆と呼ばれるこの島の住人が、嘉兵衛のウルップ島巡検に同行したという記事が収録されています。
司馬遼太郎は『菜の花の沖』の中で、「筆者はその文書の現物をみたことがないが」と断った上で、このエピソードを元に作品の構想を膨らませています。
この記事が事実であったことを証明する古文書が、現存することが明らかになりました。この史料の存在を御教示いただいたのは、山陰中央テレビの「伝承日本 誇るべき日本の知恵と技 #1 日本の始まりの島 沼島」の番組制作会社の方です。
2019年、船頭であった源兵衛の子孫にあたる70歳代の男性が、沼島の神宮寺の住職である中川宜昭(ぎしょう)氏を訪れ、「自分には子がないから、寺で預かってほしい」とこの古文書の管理を託しました。高田屋嘉兵衛の資料調査のため小館を訪れた番組製作スタッフの方が、この事実を伝えると共に中川氏を紹介してくださいました。
文書は先祖代々、巻物として大切に保管されており、船頭であった源兵衛に3両、5人の水主(かこ)に2両づつが幕府からの褒賞手当として渡されたことが記され、「右者、ウルップ島江渡海の節、格別骨折に付、書面之通、別段に被下之(これをくだされ)」と書かれています。
文書には「酉七月」としか記されておらず、これがいつの事であったのか、年号を特定することができませんでしたが、巻物と共に残された添え書きには享和元年(1801)の日付が入っており、司馬氏の推察が正しかったことが証明されました。
ラッコ島とも呼ばれたウルップ島は当時、ロシア人が毛皮を求めて入植を試みており、対外緊張が高まる中で島は、日本側にとって戦略的にも重要な地であったはずです。その航路開発の背景には、名もない沼島衆の活躍がありました。
余談になりますが、『菜の花の沖』の嘉兵衛は、宜温(ぎおん)丸船上で浄瑠璃を唄う源兵衛に応えて、自分でも「夕霧阿波鳴門(ゆうぎりあわのなると)」の一節をうなります。「侍とても貴からず、町人とても賤しからず、貴いものはこの胸ひとつ」という一節は、いかにも嘉兵衛が口にしそうな台詞であると思いませんか。