高田屋7代目の高田嘉七氏とゴロヴニン子孫ピョートル・アンドレーヴィチ・ゴロヴニン氏の出会いは、1987年、嘉七氏がロシアに残る嘉兵衛関係史料の調査にレニングラードのソビエト地理学会を訪れた際に、TVを通して、ゴロヴニン・リコルドの子孫を探していると呼びかけたことがきっかけでした。嘉七氏の呼びかけに応えたのが、ピョートル・ゴロヴニン氏でした。

ゴロヴニン氏の祖先に対する関心は、工学博士、海軍大佐であった父親アンドレイ・ゴロヴニンから受け継がれたものだといいます。父親は彼にゴロヴニン家の栄光の血筋について多くのことを語り、文書や品物を後世に引き継ぐようにと言い残しました。

「今日のソ連邦」1988年3月15日号で、二人の出会いを報じた記者は最後にこのように書いています。
〔これは〕範囲の狭い、家族的な話のように見えるかもしれない。しかし家族から国民が成り立ち、家族の記憶から人類の歴史が形成される。もしもさまざまな国の家族たちが共通の記憶を保持し、お互いを信じ合うなら、諸国民間にも平和と友情が訪れよう。民間外交は相互理解と信頼に寄与する。このことを日本人高田嘉七氏とロシア人ピョートル・ゴロヴニンは祖先たちと実例と自分たちの実例で確認したのだった。

二人の輪に、リコルド子孫が加わったのは1999年のことです。
リコルド6代目子孫にあたるアナトリー・チホツキー氏はペレストロイカの頃から、ペテルブルグにある貴族台帳などを調べている内に、自分にリコルドの血が流れていることに気付いたといいます。1997年、ゴロヴニン事件史料の探索にペテルブルグを訪れていた岡山大学名誉教授保田孝一氏が現地の研究者よりリコルドの子孫がいると紹介され、北海道新聞が記事にしました。

この記事を読んだ五色町長が、1999年の嘉兵衛翁生誕230周年の記念事業に、3子孫を日本に招聘することを決心します。1999年10月、嘉兵衛の故郷高田屋嘉兵衛公園で、事件解決後186年ぶりに関係者子孫の再会が果たされました。三子孫は先祖ゆかりの地である函館市、松前町も訪れます。

三子孫は、帰国間際に官邸で小渕恵三首相と面会しました。小渕氏はその子孫たちを「平和の大使」と呼び、このような出会いが「日露関係を改善し」、「日露間の問題の解決に寄与する」のだと強調されました。そして「貴方たちが親交を深めることが重要であると同時に、貴方たち三人だけでなく、他の大勢の人々をもこの親交の仲間に引き込むことが必要だ」と仰いました。この言葉を受けて、チホツキー氏は嘉兵衛の故郷洲本市(旧五色町)とディアナ号の母港クロンシュタット区との姉妹都市調印のために奔走します。