日本の木造和船は技術者が高齢化し、その後継者も途絶えつつあります。
1928(昭和3)年淡路島に生まれ、2009(平成21)年に世を去った安部修氏は、石井謙治氏ら日本海事史学会の知遇を得て、その優れた技術力で、古代から近代までの船模型の作品を世に送り続けました。

画家になりたかった

 安部さんは昭和3年、淡路島福良(ふくら)港の近くに船大工の次男坊として生まれ、幼い頃から絵や彫刻など物をつくることが好きだった。子供の頃は「画家になりたかった」のだという。風雲急をつげる世相の中で、大陸を駆ける馬賊を夢見たこともあった。しかし栄養失調などで体を悪くしたこともあり、家業を継ぐため地元の「帝国木船工補導所」に就職した。

 「補導所から戦後の阿部造船所の最初の数年間、それは今思い返してもなつかしい修行時代です。分担は異なっても、周囲は船好きばかり。実際私ら船づくりを〝職業〟と考える意識など毛頭なかったのです。馬賊になる夢が、そのまま船づくりに乗り移ったかのような毎日でした。そして親方にあたる造船所の社長が、図面をかけば作業の最終工程まで全部見通し、材料捜しに山へ行けば、少し歩いただけで使える木の本数を見抜く――すべてがそんな具合の人だったのです。だからこそ気の荒い連中に対し、あれだけの権威をもって接することができたのでしょう。」

 「どの船にも必ずある曲線部分は、木の自然の〝まがり〟を使えば大変な強度がでる。親方はその微妙な角度をさぐりあてるのも神技に近かった。もっとも弟子に対する厳しさも人一倍で、動きのとりやすい立て膝でなく坐って仕事でもしようものなら、手近な木片をつかんでは気合を入れられました。今でも私にとって、中腰は一番楽な姿勢なのです。」

 同僚の仕事を遅らせるため道具を鉋屑の下に隠したり、屑の丸太ばかりを押し付けてきた兄弟子のつらい仕打ちに対する恨みも今は消えた。

嘉兵衛のふねをつくる

日本造船史の大家、石井謙治氏との出会いを経て、『魏志倭人伝』の古代船を復元する仕事(1975)等に携わった安部さんは、木造船の第一人者として数々の作品を世に送った。嘉兵衛との出会いは、神戸博(1981)がきっかけだった。博覧会のために、嘉兵衛ゆかりの和船を製作して欲しいという依頼が舞い込んだのだ。まずモデル探しから始めたが、これが難物。製作のほとんどを船大工の口伝による和船には、詳細な設計図が残っていない。
〝助け船〟を出してくれたのは、神戸商船大学の松木哲教授だった。
「嘉兵衛の持ち船を再現しようとしても、設計図もないし無理だ。むしろ同じ時代の同型艦を再現した方がいい。」
松木教授が挙げたのは、京都府京丹後市久美浜町の蛭児神社に奉納された「三社丸」(1400石積み)だった。船には嘉兵衛の辰悦丸とほぼ時期を同じくする「寛政11年(1799)」の日付が記されている。松木教授が実測図をつくり、それを安部さんに手渡した。机上の理論では解決したつもりでも、実際に工作してみると矛盾が生じて上手くいかないケースも少なくなかったという。そうした時には船大工としての経験と勘が生きた。評判は全国に拡がり、その「黄金の腕」を見込んだ和船の再現依頼の注文が相次いだ。完成した船を見送る毎に、「手塩にかけた娘を嫁にやるときの、父親の心境ってのは、こういうもんですかな。

現代のクギでは職人の恥

「我が国に500石以上の和船造船禁止令が出たのは明治20年。そのために1000年以上もの歴史をもつ純日本式の船が、今の日本には一隻もないのです。北欧に行けば大昔バイキングが乗った船の実物大の模型まであると聞くのに、なぜ日本には100年前の船が現存しないのか。船大工として先人が築いた伝統を思えばこれほど悲しいことはありません。ですから私、模型といっても大きさ以外、一切の妥協をせず、船くぎ一本に至るまで自分の手でつくりました。現代のクギを使ったのでは職人の恥です。そこまでやれば、道具の違いは差し引いても当時の労苦をしのぶことができると思ったのです。大切にしたかったのは『形』より『精神』の方でした。」

魂のこもった船を造りたい

「建造中はいつもヒゲが伸び放題」と照れた顔で笑う。「海の関係者の間では、古い船を大切にしない癖がある。まして近年は鋼船やプラスチック船の時代。いまの間に昔の美しい和船を再建して、海の先輩の足跡を残しておきたい。」 和船を見つめる目が少年のようにキラキラとひかる。そんな人だった。享年82才。